頭蓋咽頭腫(脳腫瘍)と闘った夫の闘病記です。
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明日は3回忌
早いもので明日夫の3回忌の法事をします。
正確には亡くなって丸2年です。

亡くなった時中学2年生だった息子は、志望校に入学しました。
大好きなPCを使えるコンピューター部に入部し、意欲的に検定をうけています。
情報の授業では先生から「お前に教えることはないから、みんなのフォローに回れ」と言われたそうです。

何でもいいから1つだけでも自信を持てることがあったらいいのに・・と
よく夫と話していました。
それを高校になって見つけたようです。

姿、形、そし性格までどんどん夫に似てきました。

ゆる~い性格です(笑)

息子曰く「お父さん似」だそうです。

あたしはというと、
夫のリハビリになれば・・というのがきっかけで始めた社交ダンスが今のあたしを支えています。

夫と通った社交ダンスの教室。
音楽に合わせて身体を動かすだけだったけど、とても楽しそうに踊っていました。
そのうち、体調が悪くなってダンスにはいけなくなったけど・・・

そこの先生に夫の葬儀の写真をブログに載せられて、あんまりじゃないかと抗議したけど、なぜ悪いのか?というような反応に呆れ返るやら悲しいやらで、その教室を辞めました。

ダンスも辞めようと思ったけど、無気力な状態でいつまでも悲しんでちゃ息子が可哀想だと思い直し、別の教室に行きました。

今ではダンスのレッスンが待ち遠しいほとです。
先生や生徒さんもとても暖かい人で、仲良しのお友達もできました。

今思うと、夫が導いてくれたのかな・・って思います


息子もあたしも夫のことを忘れることはないけれど、毎日楽しくそして仲良く暮らしてます。

だから、安心してね
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発病
それは激しい頭痛からはじまりました
それまで頭痛の経験がない夫が「頭が痛い、頭が痛い」と言うのです。
その頭痛は2週間たっても良くなりません。
心配になって近所の脳外科を受診しましたが、異常なしの診断
それからさらに2週間頭痛は激しくなるばかりです。
その間も夫は仕事に行っていました。

やっぱりおかしい・・職場の人のアドバイスで別の脳外科を受診しました
私が仕事から帰って結果を聞くと、「詳しい検査をするから予約してきた」 と言います。いくら聞いても大丈夫だからと言ってちゃんと話そうとしません。夫には悪いと思いましたが、病院に持って行ったバックを開けると、そこには小さな紙に頭の絵が書いてあり、その中心部に丸い円が書かれていました。
やっぱり・・・夫は誰にも内緒で検査を受けようと思っていたのです

MRI検査の結果夫は脳腫瘍と診断されたのでした。

今後について夫と話し合いましたが、結論が出ないまま翌日夫は仕事に行きました。

まるで私の方が病人みたいに取り乱してしまいました。
診断してくれたお医者様に電話して夫が仕事に行ったことを伝えると
「今の段階では悪性か良性か分からないので入院してもっと詳しく調べる必要があります。ダンナさんを説得して入院させてください」と言われ、
夫に電話して入院して欲しいと泣きながら頼みました。
夫は翌日から病気休暇を取り入院することになりました。

検査の結果夫の腫瘍は「頭蓋咽頭腫」であることが分かりました


頭蓋咽頭腫とは
ホルモンの中枢である脳下垂体の近くに発生した腫瘍です.脳下垂体は鼻の付け根の奥のトルコ鞍という頭蓋骨のポケットのようなところにあります.脳腫瘍の約5%がこの腫瘍であり,小児にも成人にも見られます.この病気の原因は不明ですが,子孫に遺伝する病気ではありません

ガンマナイフ
後の治療について主治医から話を聞きました。
脳下垂体にできているため、手術をするとなるとかなりのリスクがあるので、
覚悟して臨まないといけないこと。
記憶障害や尿がたくさん出る尿崩症になることも考えられるということ
いろいろなことを聞き、夫はガンマナイフを受けることにしました


ガンマナイフ治療とは
開頭せずに脳腫瘍や脳血管障害などを治療する方法です。201個のコバルト60から放射されるガンマ線を虫眼鏡の焦点のように病巣にのみ正確に照射するのです
ガンマナイフ治療は通常3日の入院で終わります。
(1日目、術前全身検査。2日目、ガンマナイフ治療。3日目、退院。)
しかしその効果が明らかになるのは通常、半年や一年たってからです。疾患によっては1ヶ月以内に効果がみられるものもあります

当時の日記から抜粋

平成12年8月23日
ガンマナイフ治療
2日で退院し、自宅で療養する

8月29日
朝から吐き気と頭痛が激しい
最悪なことに主治医は学会のため不在。
代わりの先生に診ていただくが、CTも異常ないとのこと
苦しむ夫・・・吐き気止めの座薬も効かない。
胃潰瘍かもしれないと言われ胃腸科を受診、胃カメラを飲むが特に異常ないらしい念のため脳外科に1晩入院することになった
付き添いはダメだといわれたが無理をいって付き添う
痛みは治まらない・・・吐き気も
「痛い、痛い」と叫ぶ。何とかして欲しい痛み止めの注射を打ってもらう。
それでも痛みは治まらない。ナースコールをしてくれと夫が言うすぐに看護婦さんが来てくれたが、夫が眠っていたため、楽になったみたいですねと部屋を出ていく。何かおかしい。
夫の右手がかすかに動いたのだが、その動きがおかしい。
「看護婦さん夫の様子が変です。ちゃんと見てください」
私の悲痛な叫びに看護婦さんが戻ってきて夫の名前を呼んだ
しかし、その呼びかけに反応することはなかった・・・
水頭症
すぐにCTを撮る。水頭症です。医師の説明

水頭症とは
脳の中の液(脳脊髄液(CSF))は脳の中で作られます。脳脊髄液は通常、脳、その周囲、脊髄管内を循環し、その後循環系で吸収されます
この液の循環または吸収が阻害されたり、液が過剰に作られたりすると、脳内の液の体積が通常以上になってしまいます。液がたまることにより、脳が頭蓋骨に押しつけられ、脳組織の損傷・破壊が起こります。

脳室に液がたまり腫れているとのこと
液を抜くためにチューブを入れる手術をしますと説明され
深夜2時30分手術が開始された
頭に管を入れ、液を抜くのだ。その管は10日ほどで抜くことができた。
幸い気づいたのが早かったので2週間ほどで回復したが、私が付き添っていなければ寝てると思い朝まで気づかずにいたと思うとぞっとしてしまった。
朝まで放置していれば、命の保障はできなかったらしい。
ほんとによかった。
しかし、その後また同じように水頭症になってしまい、繰り返すからと脳に溜まった水を腸に流れるようにシャント手術をした。
これによって水頭症になる心配がなくなるとのことでほっとする

でもこれはほんの始まりにしか過ぎなかったのです

夫は激しい頭痛に悩まされ、時には痛みのあまり吐くこともありました
痛み止めも効かず、叫ぶ夫を見て「生き地獄ってこういうことなのかもと 思いました。何もしてあげられないもどかしさで本当に辛かった

姑は毎日夫の世話をしに病院に来てくれました。

今もそうですが、実家の助けがないとここまでやってこれなかったと思います。終わりがないように思えたこの頭痛も次第に治まってきました
そして11月17日めでたく退院の日を迎えることができました。
開頭手術
退院してしばらく実家で療養することになりました。
私が仕事をしているので、実家の両親が看てくれることになったのです。

週末になると私と息子が泊まりにいく、そんな生活が続いていました。

夫は1日の大半を寝てすごしていました。
テレビで脳を刺激するのに、音楽を聴かせると効果があると聞き、
さっそくCDラジカセを購入し、夫の好きなCDを買い夜実家に持っていきました。
すると、夫の様子がまたまたおかしいのです。水も飲まなくなってきたと聞き
すぐに病院に電話して連れて行こうとしましたが、自発的に歩くこともできず、引きずるようにして車に乗せました。夜だったので当直の先生しかいなくて、
はっきりした診断もされないまま様子を見てくださいと帰されてしまいました。

翌日主治医がいるときに病院に行って検査をしてもらうと、ひどい脱水症状を起こしていました。
即入院です。昨夜のうちにちゃんとしてくれていたら・・・腹立たしい気持ちでした。
昨夜の当直は前回の水頭症のときに診察した先生でした。
もう絶対にこの先生は信用しないと、心に決めたのでした。

脱水症状が落ち着いてきたものの、CTを撮ってみると腫瘍から出血していることが判明。意識レベルも下がってきて、手術をすることになりました。
初めての開頭手術です。

医師の説明によると、腫瘍の中にドロドロとした液体が溜まっているので、
それをできるだけ、吸い取りその液をいつでも抜くことができるように、頭に管を埋め込むということでした。
4回目の手術です。もう何度手術のための承諾書を書いたことでしょう。

手術は6時間に及びました。夫は無事に戻ってきました。
ただ、今思うとこれは何の手術だったのか?もしかしたら、腫瘍を取ろうとしていたのかも?しかし、その後夫の意識状態はよくなってきたので、必要なものだったと・・・そう思いたいです。

この頃から摂食障害が起こり、過食症のようになってしまったのです。
70キロ台だった夫の体重は80キロ、85キロ90キロ95キロとすごい勢いで増えていったのでした。

そして3ヶ月に及ぶ入院生活も5月9日で終わったのでした。
つぶやき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
闘病記を書くに当たって、私の感情はなるべく出さないようにと心がけてきました。
事実をありのまま伝えたいと思ったのが理由です。

夫が脳腫瘍になって3年半、私の人生感が変わりました。
ここではそんな私の気持ちの移り変わりを書いてみたいと思います。

夫が脳腫瘍だと分かったとき、私は泣いてばかりいたのです。
私の中では脳腫瘍=死でした。
ネットで調べるのも怖くて検索すらしませんでした。
それはつい最近までそうでした。このHPを作るようになってようやく病気のことについてネットで調べたくらいです。
ガンマナイフ、水頭症、髄膜炎・・・次々と起きる出来事に私は混乱していました。

外で人を見れば、その人に視線を向け、「この人が病気になればよかったのに、どうしてうちなの?」と心の中で思うのです。「この人でもよかったじゃない、この人でも・・・」って。自分以外の人がみんな幸せそうに見えたのです。

毎日、仕事には行ってても家に帰れば泣いてばかり。。。病院で付き添ってる姑から夫の様子を聞いては泣き、思い出しては泣き・・・もう悲惨な状態でした。
それを見た夫の母が子供の前では泣いたらダメだと私に言いました
でも、我慢しようと思っても涙が出てくるのです。
そんな私を見て息子が「他の人の前で泣くと叱られるから、僕の前でだけ泣いていいよ」って 小学校3年生の息子が言うのです。息子には病気のことを全部話していました。
父親が入院して寂しくないはずがありません。
その日から私は泣かなくなりました。息子から何度助けられたことでしょう
頼りない母親です

今思えば、これも病気を受け入れるために必要なことだったのかもしれません

「偉いね」「がんばってるね」私はこの言葉が大嫌いでした
だって偉くなんかないから。記憶障害で何度も同じことを聞く夫に「いい加減にしてよ」とか「さっきも同じこと聞いたよ」とかひどいことを言ったこともあります。
ずっと不機嫌な顔をしてたときもあります。だから全然偉くなんかないのに・・・って

でも、私には愚痴を聞いてくれる友達がいました
職場には一緒に泣いてくれた友達がいます。手術が決まったと電話をしたとき職場の人2人でこっそり泣いたと後から聞きました
介護休暇の申請に「仕事のことは心配しなくていい」と言ってくれた課長
「仕事のことは大船に乗ったつもりで任せてください」と言ってくれた後輩
明日から休むと言う前日に帰ろうとする私を追いかけてきて「あんたががんばってることは見てれば分かるよ。いつも明るくして・・」と
涙をいっぱいためて、こんなことしかできないけどとお見舞いをくれた先輩

メールをくれる人もいます。「何もできなくて・・」って言うけどその気持ちだけでどれだけ勇気付けられたことでしょう。

ネット上の友達は「がんばらなくていいんだよ」「泣きたいときは泣いていいんだよ」と私が落ち着くまで話しを聞いてくれました。

私はたくさんの人に支えられているのです。

趣味でやっているゴスペルのリーダーのお父様が牧師さんで夫の病気のことを知り個人的に祈ってくださり、
「神は我々に試練を与えます。しかし、乗り越えられない試練は与えません。必ずや道は開けるでしょう」と

この言葉は私の胸の奥深くに染み込みました。

夫と私は22歳のときに私の親の反対を押し切って結婚しました。病気になるまでの12年間、本当に大事にしてもらいました。私はどちらかというと身体があまり丈夫じゃなかったので家事もしてくれたし、何よりも愛されているというのが伝わってきました。
だからという訳ではないけど、夫が病気になって辛いこともたくさんあるけど、離婚しようなんてことは1度も考えたことはありません。苦労してるねって言われるけど、苦労って思ったこともありません。

こうやって今までの自分の気持ちを書いてみると変化していってるのがよく分かります
その時は一生懸命で気づかないけど振り返ってみると分かるものですね

今は「この人が病気になればよかったのに」とは思いません。
みんな明るく振舞ってても、もしかしたら辛いことがあるのかもしれないと思ったりします。
表に出さないだけでたくさんのことを抱えてるのかも・・と

私も少しは成長したのかな?(^^;)
思いつくままに書いたので支離滅裂な文章になってしまいました

またときどきつぶやくかもしれません

高血糖
退院してからも、体調が悪い日が続き結局平成13年6月28日から7月18日まで5回目の入院。7月に6回目の入院と入退院を繰り返すのでした。

実はこのとき、あまりに大変すぎて記録を残すことも忘れ、今思い出そうとしてもその時がどういう状態だったのか、思い出すこともできないのです。

夫は半年の病気休暇ののち、そのまま休職していました。
夫の実家と協力しながら看病の日々でした。
きっと、毎日大変だったとは思うけど、思い出せない・・
ただ、「腹が減った」「食べたらダメ」この繰り返しだったような、そんな気がします。
平成14年8月26日また様子がおかしい、意識障害です。
眠り続けるのです。検査の結果血糖値が500あるので即入院と言われました。このところ、喉が渇くと言ってはオレンジジュースをたくさん飲んでいました。私はもうダメだと言って喧嘩するのも嫌なので好きなようにさせていましたから、それが悪かったのでしょう。それにしても500とは・・・健康な人の血糖値は100以下ですから、それが異常な数値であることは間違いありません。インスリンを打ちながら食事療法をしていました。
この頃の夫は人が変わったように怒りっぽくなり、大きな声を出したり病院を抜け出して大騒ぎになったり、まともな状態ではなかったので、ICUで24時間監視することになりました。
10月7日血糖値も120前後になり、退院することになったのでした。
それからは夫の病状も落ち着いて、平成15年の夏には元々好きだった
キャンプに出かけたりして楽しい時を過ごしていました。
この夏4回目のキャンプ場で夫が訳のわからないことを言い出し少し変だなと思っていました。
翌早朝5時頃に夫が「うわーうわー。どーしよーどーしよー」と叫ぶのです。何を言っても耳に入らない様子ですぐに病院に電話しました。病院に行くと脱水と高血糖だと言われました
食事療法をし、水分にも気を使っていたのに昨年と同じ状態です。
しかし、今回は比較的早く血糖値が下がっていきました。
そんなときです
偶然が重なって、私は「神の手」の存在を知ったのでした
神の手との出会い
私は基本的にテレビを見ない人です。
ネットをしている時間が長いからというのがその理由なんですが
その日はたまたま、いつもチャットでおしゃべりしている人が早く寝て暇になったので新聞のテレビ欄を見るとTBSで「これが世界のブラックジャック」というタイトルが目に入ってきました。
すぐにテレビをつけると、ちょうど脳外科医の先生の紹介だったのです。
前に1度「情熱大陸」で見たことはあったのですが、そのときは「すごいなー」
くらいで特に何も思わなかったのですが今回はなにか突き動かされるものがあり、夫の母に電話して、すぐ見るように言いました。
その番組の内容はもう言葉では言い表せないくらいすごく、頭の中に十数個できた腫瘍を1つ1つ摘出している先生の姿が出ていました。「この先生しかいない・・・」
すぐに母に電話したら母も「すごい!!」と言葉が出ませんでした。
何とかして連絡を取りたい・・・
私が最初にしたのはTBSに電話をすることでした。
しかし、10時半という時間のためか、誰も出ませんでした
仕方がないのでネットで検索したのです。
先生の名前を入れるとすごい数にヒットしました
40分くらい次々見たでしょうか。年に数回先生が来られているという病院のHPを見つけることができました。
長崎です。同じ九州ですから行くことはできます。
翌日8時半になるのを待って電話しました。
M病院としましょう。M病院の看護婦さんはとても親切に話を聞いてくれて、一度院長に会ってくださいと言われました
そのとき夫はまだ入院中でしたので夫の母と2人で行くことにしました。
主治医にお願いして診断書も書いてもらいました。
長崎まで高速バスで3時間半です。
M病院の院長先生もとても親切な方で相談して連絡しますと言ってくださいました。この放送を見たのが9月17日で翌週にはM病院まで行ってたわけです。
それからしばらく返事がくるのを待っていると、「11月に先生がみえるので診察を受けてください」と電話がかかってきました。
それだけでも信じられない気持ちでした。
診察当日。5人の患者さんとその家族が待ってしました。
手術の合間の診察なので朝からずっと待って呼ばれたのはお昼前でした。
やっと呼ばれました。MRIの写真を見て「うーん・・・」、もうドキドキです。
「これね、手術しないとあと何年生きられるかわからないよ?やらないとダメです。先生ね12月にまた来るんだけど、30日まで手術が入ってるしね。でもその次は3月だしなー。3月まで待ってたら目は完全に見えなくなるよ。やっぱり12月だな。31日にしましょう。」というお返事でした。
もう涙ボロボロです。あと何年生きられるかわからないと言う言葉と手術してもらえるといううれしさで、涙が止まりませんでした。結局数日後に連絡があり、「30日に小倉の病院で手術をするからそちらで一緒にやりましょう」と言われました。
小倉だと大分からJRで1時間半です。よかった。近い
事前に小倉のK病院の診察を受け血糖値があがると手術できないので少し早いけど2週間前の12月16日に入院しましょうということになりました。
手術まで
12月26日いよいよ入院です。
夫と2人でJRで小倉まで行きました。
小倉駅の隣にあるショッピングモールで昼食を取っていこうということになり、
どうせ入院するんだし血糖値気にせずに好きなもの食べようと(笑)
お好み焼きを食べることにしました。
トッピングにはチーズ。ジュースもつけました。これって夫にとってはメチャメチャ久しぶりのものなんです。ジュースは絶対ダメでしたからね

気を抜くと涙が出そうになるので我慢して食べました
私が泣くと夫はもう帰れないかもしれないって思うそうです
実際最初の入院のときそう思ったそうです
大満足で病院に行きました
地元の病院のときは暴れたり抜け出したりしていたので、それを看護婦さんに伝え洋服を預かってもらったり、抜け出そうとするとセンサーが鳴るおまもりみたいなものを首からぶら下げたしてもらいました。今は比較的状態がいいので大丈夫そうです

12月29日夫の母、姉、息子、私の4人で小倉入りです
父は実家の犬ラッキーとうちのアリスのために残ってくれました。
子供と同じですから、おいていくことはできなかったので
父がみてくれて助かりました。
手術前の説明を夫、母、私の3人で聞きました。
手術そのものよりも手術後の方が厳しいということでした。
血圧低下、尿崩症、なによりも麻酔から覚めないかもしれない等々。
でも不思議なことにいつものような不安感はありませんでした。
夫もしっかり受け止めているようでした。
午後から髪を剃ってもらいました。普通は全部剃らないらしいのですが夫の場合前回の開頭手術の傷にそって切るので分かりやすくするために剃るということでした。
30分くらいで戻ってきました。ちょっと気に入った模様(笑)
「似合うやろ?」と聞いてきました。
そしていよいよ手術当日12月30日が来たのでした。
手術当日
この日は3人の手術をするので手術室に入る時間がはっきりしていなかったため、朝10時にはホテルから病院に行きました。
朝6時から夫は水分も取っていません。過食症のため辛そうです。
点滴をしてもらうと安定剤が入ってたようでウトウトしはじめました。
11時頃に私の両親と兄家族が来てくれました。
いつも多くを語らない父が「悪いものを取れば楽になるからな」と言うのを聞いて涙が出そうになるのを必死で我慢しました。

それにしても待つのは長い。まだ手術が始まっていないのに、
とてつもなく長く感じる。

午後2時45分手術室へ搬入。手術室の前でみんなで「頑張って」って声をかけると親指を立てて答えてくれました。
入ってしまってから、それまで我慢していた涙がいっきに溢れ出しました。
絶対に泣かない息子もこっそり目を拭いています。
みんな思いは同じです。がんばれ!がんばれ!

6,7時間かかると言われていたので控え室で待機です。
軽くおにぎりやパンを食べました。食べたくなくても食べないと
こちらが参ってしまいます。お茶で流し込みます

ご主人が朝8時から手術しているという方がずっと待っていて
話をすると、その方は島根から来ていてやはり、テレビで見て
ネットで検索して来れれたのだということでした。
妙な連帯感が沸いてきてしまいました。

午後7時すぎ 突然先生が出てきました。朝から手術している方の家族に説明をしています。
難しい手術だったようで時間がかかっているということでした。
私は勝手に「だったらうちは今からするのかなー」なんて思っていたら、
「○○さんの家族ですね」と聞かれ、返事をすると「難しい手術だったけどね、9割は取りました。ガンマナイフのせいで脳幹に癒着している1割がどうしても取れなくてね。無理すると命にかかわるから、残しました。今は頭閉じてるから、あと1時間くらいで出てくるよ。実際に僕がかかった時間は1時間半でした」と
全国から10人のドクターが来て学びながら手伝うらしいのです。それで同時進行が可能なんだと納得しました。
それにしてもなんて早いんでしょう。それに取れないと言われていた腫瘍の9割が取れたなんて!!全部取るのが僕の信条なんで悔しいと言われていたけど、「十分です。ありがとうございました」これだけ言うのが精一杯でした。

それから約1時間でCTを撮るために手術室から出てきました。
麻酔は覚めていませんが「よくがんばったね」と声をかけました。たくさんの方が心配してくださっていたので外に出て携帯で電話をかけました。泣いてくれた人もいました。
みんな本当に心配してくれていたのです。

しばらくたってICUに入れてもらいました。
麻酔が覚めるまでには3日くらいかかるかもしれないということでした。
こうして長い長い1日が終わったのでした。

退院まで
翌日母、姉、息子は大分に帰ることになり、面会時間には早いけど会わせてもらえるようにお願いしました。
麻酔から覚めてたらいいなと思いましたが、期待してダメだと落ち込むので考えないことにしました。
2人ずつしか入れないのでまず、母と姉が入りました。5分もしないうちに泣きながら出てきて意識がはっきりしていて
私や息子のことを心配していると言うのです。急いで入りました。
「分かる?分かる?」と聞くと「うん うん」と言います。息子にお父さんって呼んでみなさいと言うと、首を横に振り、
くるっと後ろを向いてしまいました。涙を拭いていたのです。息子も我慢してたんだなーと思うと涙が止まりませんでした。
3人とも安心して大分に帰っていきました。

面会時間は2時からです。左半身に麻痺が残るかもしれないと言われていたので、左手を握ると握り返してきました。
左足動かしてみて と言うとちゃんと動かしていました。
ただ、目が見えていないのです。医師の説明では意識があるのに瞳孔が開いているから、おそらく光も感じていないでしょうと
言うことでした。覚悟していましたから、大きなショックは受けませんでした。だって生きてるんですから

1月1日術後2日目
少しだけ光を感じているらしい。夕食を食べる手伝いをしたが、手探りで悪戦苦闘する
元旦だからなのか、おかゆなのに、おかずにステーキ・・・術後2日でステーキっていいのかしら?と心配するが
「この肉硬て~の~」と言いながら食べている。苦笑である
昨日はおかゆを2口くらい食べて吐いたらしいので、すごい進歩

1月2日術後3日目
手術前から言われてた尿崩症がひどい。おしっこの調節ができずに、たくさん出てしまうのです
管を通して15分毎に量を測っていくのですが、みるみるうちに溜まってきます<

1月3日術後4日目
前日よりもおかずを掴むのが上手な気がする。かすかに見えているみたい

1月4日術後5日目
父親が心配なのと、寂しさで息子から電話がかかってきた
明日1人で電車に乗ってくるらしい。それを夫に伝えると「うんうん」と言う
夫は誰にも見えないものが見えるようで、手を伸ばして掴もうとしたり、話したり糸を通してるといって一生懸命手を動かしたりしている。
前の手術のときはもっとひどかったので、見守るしかない

1月5日術後6日目
息子が1人で電車に乗ってきた
ICU入って夫と会う。「よく来たな」と夫「うん」と息子
それだけで安心したようで、息子はICUから出て控え室に行った

1月6日術後7日目
夫の様子がおかしい 呼びかけても返事をしない 朝からだそうだ
ナトリウムが不足しているとかで、点滴をしているが反応がおかしいのでCTを撮る
幸い頭には異常がなかった。
よかった ナトリウムを補えば大丈夫とのこと。
点滴だけでは補えないのでおにぎりに塩をまぶすという荒業である。
すごい量なのに食べているのにはおどろいた。
塩分が不足していると塩辛く感じないらしい
そのおかげなのか夕方には少し元気になる。この日初めてCTを見た。今までは真ん中に白い腫瘍がいつも見えていたけど全く何も写っていないのです。思わず「こんなCT久々に見ました」と言ってしまいました。
摘出できなかった残りの腫瘍はCTにも写らないくらいのようです

1月7日術後8日目
夫は元気になり、食欲モリモリ 昨日塩辛く感じなかったおにぎりだったけど、今日は辛くて食べれないらしい。やっと戻ってきた
ホテル暮らしをしている私の体調が少し悪くなり、一旦大分に帰ることにした
それを伝えると「無理するな。気をつけて帰るんだぞ」と。いつも自分のことより私のことを心配してくれる人なのです

1月10日術後11日目
姑が病院へ
夫は順調に回復していて、アリスの話をすると笑いながら聞いていたらしい
夫にしか見えなかったものはもう夫にも見えなくなったようである。
手を伸ばしたりはしなくなった

1月11日術後12日目
看護婦さんから電話があり、今日ICUを出るということでした
すごい!なんて回復力だろう

1月12日術後13日目
気になるので病院へ行ってみた。ナースステーションの隣の3人部屋に夫はいた
おしっこの管も抜けて、点滴もしていない。尿崩症は点鼻薬で調整ができるようになったらしい
手を引かれてトイレにも行ける 腕時計をしてあげると時間を答えたので驚いた。少し見えているみたい

1月13日術後14日目
病院から「そろそろ地元の病院に戻る相談をしたい」との電話がかかる

1月14日術後15日目
元々診てもらっていた大分の病院に転院することになる。夫の体調は良好
過食症もよくなり85キロだった体重が75キロになる。
9月に高血糖で入院したときが96キロで退院するときが85キロだったので
すごくスーマートになった。病気になる前みたい

1月16日術後17日目
退院するものと思って行ったら、元の病院と少し行き違いがあって、退院が延期になる
私が治療方針を無視して他の病院での手術を決めてやってしまったのでいろいろあるらしい。。。
大分の別の病院を紹介してもらうことになる

1月17日術後18日目
すぐに受け入れ先の病院に連絡を取ってくれていつでもOKと言う返事をもらう
明日迎えに行きますと返事をした

1月18日術後19日目
退院 まさかこんなに早く退院できるなんて夢のようです
母と息子と3人で迎えに行きました。夫もうれしそう 風邪をひくと悪いのでマスクと帽子で完全装備
ホームに登る階段が不安でしたが、足取りも軽くあっと言う間に登りついてしまった
ゆったりとした状態で帰らせてあげたかったので一人あたり1520円プラスして、グリーン席を取りました。これは大正解でした。
駅弁を食べながらゆった のんびり ちょっと幸せ感じてしまいました。

久々の我が家です。目はぼんやりしか見えていないけど、12年住んでいるので感覚で覚えているのでしょう
まるで見えているかのように動きまわります。
この日ささやかですが、みんなで退院のお祝いをしました。

退職
夫の入院中、3年間の休職期間が終わりに近づいてきていて
その対応に追われていました
2月13日がタイムリミット なんとか復職したいと願っていましたが
この状態ではどうにもなりません。
ついに退職の決意をしました
退職するとなるといろいろ手続きがあり、何度も何度も夫の職場に通いました。私も仕事をしているので仕事帰りに行くのですが、通勤に1時間かかります。担当者の人がいつも待っていてくれました

2月13日 上司の方が病室に辞令と「長年職務に精励され・・・」と書いた感謝状を持ってきてくれました
夫は退職するんだよと言ったときは分かるけど、すぐ忘れてしまいます
今も「仕事はいつから行けるんかな?」と日に何度も聞いてきます
これが今は少し辛いです

退職後は全員に挨拶状を出してと夫から頼まれたので挨拶文を考えて
住所を入力してPCで私が作りました
220人分・・・かなり大変でした
それと平行してお見舞いをいただいておきながらお返しできなかったので
退職を期にけじめをつけるためにお見舞い返しをしました
その数50人分・・・この中に入れる挨拶状も作りました
今までがんばって仕事をしてきた夫のためです。大変だったけど
ちゃんとできてよかったと思います

18歳から働いてきた職場です
同僚の方の話によるとバリバリよく仕事をしていたそうです
年上の方からかわいがってもらってたと聞きました
発病する数年前に異動で3交代のところに行きました
半年間は欠員のままでしたが、3交代のところで1人欠員というのは大変らしく、休職になってから籍だけ本社に異動になりました
異動になって、元の職場から夫のロッカーの荷物を取りに来て欲しいと連絡がありました
ロッカーを開けたとき、涙が出そうになりました
きっと、すぐに戻れると思ってたのでしょう。制服がかけてありました
夫が休みに入ったときのままです。とても辛かった・・・
同僚の方が車まで荷物を運んでくれました
きっと戻ってきますから・・・と挨拶をしました

でも・・・無理でした
だけど、私は思います。摘出できなかったらあと数年だった命です
命よりも大事なものなんてないです
生きていてくれるだけでいいって心から思います
仕事はまた何年かたって何かできることを見つければいいのです

障害者手帳の申請をすることに正直抵抗がありました
それはまだよくなる可能性があると思うから・・・
でも、ある人のアドバイスがありました
その方の親戚がやっぱり脳腫瘍で手術したけど少し後遺症が残っているらしいのです
もう10年たっているそうですが、仕事につきたいと思っても後遺症が残ってるから健常者のようには就職もできないそうです
障害者手帳の申請は本人がどうしても嫌だと言ってしてなかったらしいです
就職を探しているときに、言われたのが、障害者の枠というのがあって、手帳を持ってたら雇ってあげられるのに・・ということだったそうです
これに対していろいろな意見があると思いますが、私はこの話を聞いて申請をすることにしました
男として仕事はしたいと思います
きっと、夫にできることがあると思います
今はゆっくりゆっくり養生してそのときが来るまで力を蓄えててほしい・・・
そんな気持ちです


低ナトリウム
低ナトリウム
1月18日に退院して自宅に戻ってきた
入院していた病院の先生から大分の病院への紹介状を送ってくれるらしい
それを待って外来受診の予定でした

家に帰ってからも、尿崩症のため、尿の量と飲む量を毎日記録していた
たくさん出るかと思うと、あまり出ない日もあったりした
今までなら私か母が尿の量を見て、デスモプレシンを点鼻する量を調節していたけど、今回は決められた量にしてくださいと言われていたのでそのままの量にしていた。ただ、すごく気にはなっていた

約1週間後紹介状を郵送したと連絡があり、1月31日に外来を受診することにした。

29日にムカムカすると言って食欲がなかったので様子を見ていた
翌日朝ごはんもちゃんと食べ、昼も夜も食べれたので安心していた
夕食後8時頃になってお腹が痛いと言い出し、トイレにいく
10分くらいして出てきて、ベットに倒れこむ
ヤバ・・今にも吐きそうな顔をしている。すぐに洗面器を持ってきた
ギリギリで間に合ったが、吐く量がハンパじゃない
頭の病気になってから、吐くというのはすごく怖い
少し落ち着いてから迷わず31日に行くはずの病院に電話した
事情を説明すると「すぐ来てください。救急車呼んで来てもいいですよ」と
夫はすでに落ち着いていたので私の運転で行くことにした
息子は留守番するという
病院に着くと、たまたま当直の先生が脳外科の女医さんでテキパキと看てくれた。退院してからの尿と飲む量を書いた紙を見せたら「しっかり管理してますね」と言ってくれた
その病院は救急病院なので後から後から救急車で患者が運ばれてくる
血液検査やCTそれから腹部エコーなどの検査の結果
低ナトリウムと診断された
前の病院のときよりも尿崩症が改善されていたらしい
それなのに、デスモプレシンの量はそのままだったので、尿が少ししか出なくなり、体内の水分が多くなってしまったらしい
夫の様子を見てると、なんとなくそうかな・・・と思ってたので、やっぱり・・・と言う感じだった
そのまま入院ということになった。今日だけ誰か付き添ってくださいと言われたので私が付き添うことにした
夫の両親も病院に来てくれていたので、息子のところに行ってもらうことにした
時間はすでに11時だった
病室に入って血圧を測ったり入院の承諾書を書いたりして落ち着いたので
荷物を取りに少しだけ家に戻った

家に帰ると息子が真っ赤な顔をして寝ていた
あちゃ・・・・熱を測ったら38度
急遽夫の付き添いを母に頼んで、私は息子を看ることにした
病気のときくらいちゃんとついていてやりたかったので・・・

夜中夫はおしっこの管を抜こうとするわ、点滴を抜くわ・・・
「火事だ~~」と叫ぶわで大変だったらしい
どうしても低ナトリウムになると精神の状態が不安定になって
幻覚が見えたり言動がおかしくなる
姑は入院中病院に寝泊りすると病院の許可を取ってくれていた

「手術のときは、あんたががんばってくれたから、今度はあたしの出番や」と
感謝感謝です

個室が空いていないので、特別室に入ることになった
1日7500円 でも、バス、トイレミニキッチンがついて下は絨毯なので
付き添いも少しは楽かもしれないし・・・

入院中
デスモプレシンの量を今までの半分にして、様子をみている
母はストローで何度も何度もお茶を飲ませる
1日に1.5リットルが目標 でも飲みたくないときは自分から飲まない
だからちびちび飲ませないと1.5リットルなんてとてもじゃないけど
無理な量です
体調が悪いと目も見えにくくなるし、記憶障害が激しくなる
不思議な現象なんだけど、いままでずっとそうでした
「火事だ!火事だ!」と毎日言って病室に水をまいたりしていたようです

母は寝袋で寝ていました
私が布団持っていくって言ったけど、いらないって言うから・・・
当初1週間程度の入院と言われていたけど、よくなりかけては脱水やら
肝機能の数値が悪くなるやら・・でどんどん退院が延びていきました

夜眠れないので、リハビリを始めようということになりました
朝と昼の2回、リハビリ室に行くいようになりました
この夜から眠るようになりました
そして少しずつ体調もよくなって、記憶の方も一時期に比べるとよくなってきました
私が忙しくて病院には週末しか行けなかったら「俺離婚されてないよな・・」と姑に聞いたそうです(^^;)
不安だったんでしょうね。ごめんね・・・

そして約1ヶ月の入院生活でしたが
2月25日退院の日を迎えました
ステキな恋のお話
ステキと自分で言っちゃうあたりが「おいおい」って感じですが(笑)
闘病記とは違いますが
私と夫の出会いについて少し書いてみます

出会いは19歳
当時私は専門学校に行っていました
学校が終ってスーパーでバイトしていました
今でこそバーコードですが、まだレジを打っていた時代です
「レジ打ってみたい・・」そんな理由でバイト先を決めました

そのバイト先で友達になった同い年の社員の女の子がいました
その子の彼の友達がよくお店に遊びに来てて、私に「彼いないんなら紹介してやろうか?」と言ってきました
私はどっちでもよかったけど、「じゃ、写真見せて~」と言いました(軽
数日後1枚の写真を持ってきました。迷わず「パス!!」
また数日後2枚目 「・・・ってこれ自分じゃん(爆)」その人は自分の写真を持ってきました「パスパス(笑)」←あたしってひどい?(笑)
で、3枚目「か、かっこいいじゃん」 もうお気づきですか?
この3枚目が夫なんです(*^^*)ポッ
少年隊の錦織に似ていました。よく言われてたそうです
別に錦織好きじゃなかったんですけどね(^^;)

で、会うことになったんですが、バイトが終って車で迎えに来てくれました
ガンメタのスカイライン・・・車高低っ(^^;)
車に乗ったのはバイト先の女の子と写真を持ってきてくれた人と私でした
夫はほとんど話さなかったけど、2人だけになったときに自分の電話番号を教えてくれました。。。。ってあたしのは聞かないのか~~~(笑)

電話番号教えてもらってもこっちからかけるってのもなんだかなーと思って、そのままにしていたら、紹介してくれた人も「お前からかけんかー」と言ったそうです
で、めでたく?付き合うことになりました(長っ

実は1度別れてるんですよ(^^;)
付き合って数ヶ月で別れが・・・
で、もう一度付き合うようになったのが21歳のとき
もう一度付き合うようになって1ヶ月目に結婚したいって言われました
親にそのことを話したら大反対(T_T)
うちは両親が離婚してて私は母と住んでたんですが、これが、まー堅い人で(^^;)
当時バイクぶっ飛ばしてたような若造に娘はやれん・・・みたいな感じで(^^;)

かなり反対されました。何度説得してもだめで最後にはデートもダメとか言い出したので、これは家を出るしかないと思い荷物をまとめました
荷物の入ったかばんを左右で引っ張り合って泣き喚いて、そりゃもう大変でした
夫はそんなこと知らずにいたんですが、あんまり反対されるので夫も心を決めたようで、「許してくれるまでここを動きません」と庭に座り込みしてくれたんです
で、私の家出騒ぎと夫の座り込みで親も渋々結婚を許してくれたってわけです

こんなこと書いたら夫に怒られるかな・・・・(^^;)

でも、今でもラブラブなのはこのときの気持ちがそのまま残ってるからだと
思います

ここまで読んでくださった皆様、きっとお腹いっぱいだとろうと思うので
この辺でやめておきますね
障害者手帳取得
障害者手帳取得
いろいろな思いで申請した障害者の申請でしたが、手帳が交付されました
休みを取って夫と2人で市役所に取りにいきました
第1種2級
障害名には「脳疾患による視力障害(2級)」と書いてあります
障害福祉課で大分市の「福祉ガイドブック」を見ながら説明を聞きました

医療費の助成、捕装具の交付及び修理、自動車税の減免、NHK受信料の減免、タクシー券の交付、JRやバス等の運賃の割引等などです

どれも一定の要件があり、それを満たしてないといけないし、申請しなければ受けられないものです
この際だからできることはなんでもしようと思い、NHKの受信料の減面の申請をしました
自動車税については車の所有者が障害者本人じゃないとダメなので
名義を変える準備をしています

これらの制度は市町村や障害の程度によって違うと思います
今まで正直言って福祉について関心はなかったけどこれを期にいろいろ考えさせられました

まだまだ夫は記憶障害が激しくて食事をしたのに、食べてないとか
日にちや曜日はもちろんのこと、今が夜なのか朝なのかも忘れています
他の人から見たら普通じゃない状態でしょうが、我が家にとってはこの記憶障害も日常の生活の一つなのです
時に私も息子もイライラして夫にきつい言葉を言ってしまいます
こちらにも感情がありますから、いつもいつも笑って過ごすことはできないのです。

日々の生活の中でささやかな幸せを感じることがあります
一緒に車に乗ってるいて、道路にに出ようとしたときに左OKと言ってくれるようになりました。ちゃんと車が途切れたのが見えるようになったのです
まだ歩いてるときなど、段差は分からないので「ここからが段だよ」とか
「少し斜めになってるよ」とか言いながら手を引いて歩くけど、大きなものは見えているようです
少しずつだけど、視力が回復しているのが分かります          

闘病記とは段々離れて行っているようなここのコーナー
それはそれでうれしいことです

「ここを読んで自分を奮い立たせています」と掲示板に書いてくださった人がいます。自分でもこの闘病記を時々読み返してはそのときの気持ちを思い出して「優しくしよう・・」って反省したりしています
急性膵炎
数日前から、少しお腹が痛いと言っていて診察を受けたが特に異常はありませんでした。

12月12日仕事中に姑から電話がかかってきました。
お腹がすごく痛いって言ってるから、病院に連れて行くよって。
救急車呼ばないといけないかも・・と

私は仕事を途中で切り上げて病院に向かいました。
夫はかなり痛そうで、痛み止めを打ってもらっても痛がっていました。

病名は急性膵炎でした。
1週間絶食して、点滴で治療しましょうと言われて入院しました。

そのときは、痛がるものの、普通に話ができて、「マジで痛て~わ~」などと言っていました。
夫は記憶障害があって、1人では病院に入院できないので、いつものように姑が付き添ってくれることになりました。
私は荷物を取りに一旦自宅に戻りました。
背中がかなり痛いようなので、背中を押す器具を持って再び病院にいきました。

すごく痛がっていて、朝からおしっこにいってなかったので、無理やりでもおしつこしないと、管入れられるよ~と言って、尿器でおしっこを取ってあげました。

これが、意識のある夫との最後でした。

姑に夫を頼み、私は自宅に帰りました。

翌日私は仕事に、姑も午前中だけ仕事をしてるので、舅に付き添いを変わってもらって仕事に行きました。

10時頃、病院から電話がかかってきました。

「今、意識が無くなって、心臓が止まりました。心臓マッサージをしてるので、すぐに来てください」と言われて、ガタガタ震えがきました。

急いで帰る用意をして、上司に事情を説明して、帰りました。
病院まで車で30分かかります。
「生きていて。生きていて」・・そればかり祈ってました。
でも、心のどこかで「もうダメかも・・」という思いもあり、私の兄に電話して、息子を病院まで連れて来てほしいと頼みました。

夫はICUに入れられていました。
夫に会う前に、主治医から説明がありました。
CTを撮ってる途中で急にチアノーゼが出て、呼吸ができなくなり、一旦心臓が止まったそうです。
心臓マッサージで息を吹き替えしたものの、
アミラーゼの値が数時間ですごい数になっていて、恐らく助からないだろう・・と。

私は検査ミス?と言う思いがあって、検査の途中で何かあったんですか?って聞いたら、腹部エコーだから、お腹の上から取ってるので、何も起きていませんという答えでした。
検査の直前まで「お腹すいた」って舅に言ってたらしいんですけど・・・。

夫に会いに行くと意識がありませんでした。

息子も病院に着きました。
夫の両親も姉も、あたしの両親と兄夫婦もみんな夫の側で見守りました。

それから、2時間・・みんなに見守られて眠るように息を引き取りました。

平成17年12月13日永眠


5年に及ぶ脳腫瘍との戦いが、こんな形で終わりになるとは夢にも思っていませんでした。
なんで膵炎なの?と・・・。

夫の脳腫瘍は神の手により除かれたものの、脳下垂体に出来ていたため、身体のコントロールが崩れることがたびたびありました。

血糖値が700になったり、脱水症状になったり。。
そして、今回はアミラーゼの数値が数時間にして、すごい値になり、亡くなってしまいました。

今日(平成18年12月10日)一周忌の法事を済ませました。
この闘病記に夫の最期の様子を書く事ができませんでしたが、一周忌を迎えたことにより、ひとつの区切りをつけたいと思い書くことにしました。

夫のことを、応援してくださったみなさん、私と息子のことを暖かく見守ってくださってみなさん
どうもありがとうございました。

闘病記はこれで終わりです。

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